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第23話 四番目の個室

Auteur: なつめ
last update Date de publication: 2026-08-19 09:14:10

 三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。

 八年前も同じだった。

 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。

 五つ目の印が示した場所。

 三階女子トイレ、四番目の個室。

 だが、どれほど見ても四つ目はない。

「間違ってるんじゃないの」

 奈々香が入口から動かずに言った。

 声には期待が混じっていた。

「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」

 誰もすぐには答えなかった。

 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。

 美月が三つの個室を一つずつ開く。

 一番目。

 空。

 二番目。

 便座が外され、床へ転がっている。

 三番目。

 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。

「壁の奥に設備室がある可能性は?」

 美月が尋ねる。

 悠斗が通路図を広げた。

「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」

「載っていない入口ばかりだな」

 朔が壁を照らす。

 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。

 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。

 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。

 鏡の中に、四つの扉が映っていた。

 澪は呼吸を止めた。

「……ある」

「何が?」

 美月が振り返る。

「鏡」

 澪は指を向ける。

「四つある」

 全員が鏡を見た。

 現実の背後には三つ。

 鏡の中には四つ。

 三番目の右隣。

 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。

 表面には黒い数字で〈4〉。

 奈々香の顔色が変わった。

「いや」

 短い声だった。

 壁へ背をつける。

「奈々香?」

「そこ……」

 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。

「八年前も、あった」

 悠斗が彼女を見る。

「四つ目が?」

「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」

 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。

「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」

 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。

「それから……ここで喧嘩した」

 澪が奈々香を見る。

「何のことで?」

 奈々香は答えたくないように目を閉じた。

 だが、鏡の中の四番目の扉が僅かに開いた。

 隙間から黒いものが覗く。

 長い髪のように見えた。

「話す」

 奈々香が早口に言った。

「言うから、開かないで」

 誰へ頼んでいるのか分からない。

「八年前、私、七不思議の話をかなり盛ってた」

「盛ってた?」

 美月の眉が寄る。

「ネットで拾った別の学校の話とか、昔の怪談とか。七刻女学校で起きたってことにしてた。四番目の個室もそう。深夜に三つしかないトイレの鏡を見ると、四番目が映る。開けた女の子は消えるって」

「作ったの?」

「全部じゃない!」

 奈々香は反射的に声を上げた。

「元の噂はあった。でも、動画にしたら弱いと思って……面白くなるように変えただけ」

 悠斗が苦い顔をする。

「俺も止めなかった」

「澄花は怒った」

 奈々香の声が落ちる。

「嘘を本物みたいに広めたら、その場所で本当に死んだ人まで作ることになるって。怪談は遊びじゃないって」

 奈々香の目が鏡の中の自分へ向く。

 八年前。

 同じ場所。

 澄花の声が、澪の中にもぼんやり蘇った。

『いなかった人を死んだことにするのも、死んだ人を別の死に方にするのも同じだよ』

『何それ。澄花だって怪談好きじゃん』

『好きだから嫌なの』

 奈々香は続ける。

「私、腹が立って……澄花がつけてた髪留めを取った」

 門前の木箱。

 奈々香の箱に入っていた、割れた赤い髪留め。

 透明な樹脂の中に、白い小花が封じられたもの。

「あれ?」

 澪が訊く。

 奈々香は頷いた。

「澄花が返してって言った。でも私、すぐには返さなかった。追いかけてきたとき、手から落として割れた」

「警察には拾ったって話してなかった?」

 美月の声が冷たくなる。

「嘘ついた」

 奈々香の涙が頬へ流れた。

「喧嘩したって知られたら、私が澄花に何かしたって疑われると思った。だから、廊下で拾っただけって」

「また誰も本当のこと話してなかったんだな」

 悠斗が呟く。

 その言葉は奈々香だけに向けたものではなかった。

 澪は胸元の手帳へ指を当てた。

 自分も今、楽譜を隠している。

 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。

 奈々香が鞄を開いた。

 透明な袋。

 赤い髪留めが中に入っている。

 門で渡されたものを、証拠として持ってきた。

「返せばいいんでしょ」

 袋を握る手が震える。

「返したら終わるんでしょ」

 鏡の中の四番目の扉は、半分ほど開いていた。

 現実の壁には何もない。

 奈々香はそこへ近づいた。

「待て」

 朔が前へ出る。

「先に仕掛けを確認する」

「でも、返せって」

「だから一人で触るな」

 朔は鏡と壁の角度を確認する。

 小型カメラを構え、四番目の扉がどの位置から見えるか移動する。

 正面からは見える。

 右へ大きくずれると、扉が薄くなる。

「投影だ」

 朔が壁へ光を当てた。

 一見ただの灰色の壁。

 しかし角度を変えると、表面に薄い膜が貼られているのが分かる。

「透明スクリーン」

「音楽室の鏡と似た仕掛け?」

 美月が訊く。

「もっと単純だ。鏡の反射と、壁へ投影した映像を重ねてる。正面から見ると、鏡の中にだけ扉があるように錯覚する」

 悠斗が壁へ手を触れる。

「でも、扉そのものは?」

 奈々香が先に腕を伸ばした。

「待て!」

 朔の制止より早く、指先が壁へ触れた。

 灰色の面へ、奈々香の指が沈んだ。

「え……」

 水面へ触れたような波紋が広がる。

 奈々香は慌てて手を引いた。

 指は濡れていない。

 澪にも、壁そのものが揺れたように見えた。

 朔は奈々香を下がらせ、同じ場所を手袋越しに押した。

 今度は硬い。

 朔の眉が僅かに寄る。

「さっきのは映像だ」

 壁の下部へ光を当てる。

 細い継ぎ目があった。

 指を掛け、横へ押す。

 壁の一部が静かにスライドした。

 裏に、人が一人通れるほどの狭い空間が現れる。

「隠し扉」

 悠斗が言った。

 内部は配管用の空洞だった。

 だが、その中にもう一つ、小さな個室が作られている。

 三方を木板で囲い、古いトイレと同じ水色へ塗装した扉。

 便器。

 水洗タンク。

 小さな鏡。

 すべて新しい。

 表面に泥や錆色の塗料を塗り、何十年も前から存在しているように見せている。

「誰かが増設した」

 美月が呆然とする。

「七不思議を再現するために」

 朔は木材の切断面を確認した。

「古くても数年。こっちの蝶番はさらに新しい」

 悠斗が息を吐いた。

「全部、作ってやがる」

 奈々香は扉の前に立った。

 赤い髪留めの袋を胸へ抱いている。

「ここに返す」

「一人では入るな」

 朔が言う。

「でも狭い」

「扉は開けたまま。澪と美月が外。俺は錠を確認する」

「私も行く」

 奈々香の声には、泣いたあとの疲れがあった。

「逃げたくない。これ、私が返さなきゃ駄目なんでしょ」

 誰も止めきれなかった。

 奈々香は四番目の個室へ入った。

 中へ一歩。

 便器の上に、赤いものが置かれている。

「これ……」

 澪も覗く。

 短い組紐の切れ端。

 濃い赤。

 金色の糸が僅かに混じる編み方。

 澪が持っている組紐と同じだった。

 ポケットの袋を取り出し、外から並べて見る。

 色。

 太さ。

 編み方。

 よく似ている。

「切れた残り?」

 奈々香が呟く。

「触らないで」

 美月が止める。

 個室の壁には、小さな文字が刻まれていた。

 便器の横。

 座った者でなければ見えにくい低い位置。

 澪が光を当てる。

 見たって言わないで。

 爪か、硬い金属で掻いたような細い文字。

「誰が……」

 奈々香の顔がこわばる。

 八年前の口論。

 警察へ嘘をついた自分。

 見たことを言わないで。

 まるで、誰かが奈々香の記憶そのものを壁へ刻んだようだった。

「返す」

 奈々香は赤い髪留めを袋から出した。

 割れた二つの欠片を掌へ載せる。

 便器の蓋の上。

 組紐の切れ端の横へ置こうとする。

 扉が閉まった。

「奈々香!」

 澪が取っ手へ手を伸ばす。

 内側から奈々香が回している。

 がちゃ。

 がちゃがちゃ。

「開かない!」

 奈々香が叫ぶ。

「開けて! 誰か、開けて!」

 澪の胸の奥で、八年前の声が重なった。

『澪ちゃん、開けて!』

 理科準備室。

 閉じた扉。

 爪で木を掻く音。

「奈々香、離れて!」

 澪は扉へ肩をぶつけた。

 動かない。

 もう一度。

 鈍い痛みが腕へ走る。

「澪、下がれ」

 朔が錠前へしゃがみ込む。

 取っ手の裏から細い線が伸びている。

「電磁式だ」

「電源を切れば?」

 美月が配線を探す。

「切って」

 朔が言う。

 美月は救急鞄の中から鋏を出し、露出していた細い配線を一本ずつ確認する。

「これ?」

「赤と黒を同時に切るな。火花が出る」

 美月が片方を切断した。

 小さな火花。

 錠前の中で、かちりと音がする。

 澪が取っ手を回す。

「まだ開かない!」

「機械的な補助錠もある」

 朔は扉の縁を調べる。

 その間に、個室の中で水が流れ始めた。

 ごぼ。

 水洗タンクの奥。

 詰まった配管が咳き込むような音。

「何?」

 奈々香が振り返る。

 便器ではない。

 タンクの蓋の隙間から、黒い水が溢れ出した。

 床へ落ちる。

 粘り気のある暗い水。

 一滴。

 二滴。

 すぐに流れへ変わる。

「水が!」

「上に上がって!」

 美月が扉越しに叫ぶ。

「便器の蓋へ乗って! 床から足を離して!」

 奈々香は狭い個室で身体を動かし、便器へ片足を掛ける。

 だが水の勢いが急に増した。

 タンクの両脇から溢れ、壁を伝い、床全面へ広がる。

 足首まで。

「冷たい!」

 奈々香が悲鳴を上げる。

 澪はまた扉へ体当たりした。

「開けて! 誰か、開けて!」

 奈々香の声。

『澪ちゃん、開けて!』

 記憶の中の澄花。

 二つが重なる。

 澪の呼吸が乱れた。

 手の古傷が痛む。

 今度は逃げない。

「朔、早く!」

「分かってる」

 朔は鍵の下へ工具を差し込む。

 電磁錠の板を外し、内部へ光を向ける。

「補助ボルトが壁側へ出てる。遠隔で落としたあと、電気を切っても固定される構造だ」

「壊せないの?」

 悠斗が工具を取り出す。

「扉ごと外す方が早い」

「やるぞ」

 二人が蝶番へ工具を掛ける。

 美月は配管へ続く線を探しながら、奈々香へ声を掛け続けた。

「息を整えて! 水はまだ膝より下?」

「足首……でも増えてる!」

「絶対に耳を水へつけないで!」

「そんな余裕ない!」

 奈々香が泣きながら壁へ手をつく。

 その正面。

 個室の中に取り付けられた小さな鏡。

 曇った鏡面へ、自分の顔が映っている。

 奈々香は一瞬、動きを止めた。

「奈々香?」

 澪が声を掛ける。

「どうしたの」

 返事がない。

 奈々香の顔から血の気が消えていく。

 鏡の中。

 自分の背後に、制服姿の少女が立っていた。

 濡れた長い黒髪。

 紺色の制服。

 右手首には、赤い組紐。

 椎名澄花。

 現実の奈々香の背後には、濡れた壁しかない。

 だが鏡の中の澄花は、奈々香のすぐ後ろへ立っていた。

「澄花……」

 奈々香の声が震える。

 少女の右手が持ち上がる。

 指先が、奈々香の肩へゆっくり近づいていた。

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